2012年10月30日火曜日

駄菓子には大抵思い出補正がかかっている

・川越は小江戸の異名を持つ由緒ある街(中央やや左に見えるのが時の鐘)

間もなく10月も終わろうとしていますが、少しずつ寒くなってきましたね。僕はというと本日修士論文の秋季の報告会を無事(?)終えてきた次第であります。まだまだ完成まで道は長く遠いのですが、とりあえず今日は連載の続きを書いていきたいと思います。ようやく川越ですw

・これは鶴ヶ島駅(東武東上線。撮影は10月12日夕方)

前の記事でちょっと書いたような気がしますが、このブログにも度々登場する僕の彼女というのが実はここ川越に住んでいるのです。本来僕は品川区のリサーチが終わった翌日の夜には京都に帰る予定だったのですが、そうこうしているうちに遅くなってしまい泊まって帰ることになったのです。(そしてもう1日もう1日とやっているうちに、それがとうとう1週間後になってしまったというワケです。←お前w)

・厄除けで有名な喜多院

「小江戸」の別称を持つ川越は、各地に歴史ある寺社が立ち並ぶ由緒正しい街なのですが、10月13日川越観光の最初の目的地はその代表格である喜多院というお寺。門前にあるのはこのお寺に縁のある天海大僧正(南光坊天海)の像。(下写真参照)ご存知の方も多いと思うのですが、この天海なる人物は非常にミステリアスなお方なんですね。

・喜多院の門前には天海大僧正の像がある

徳川家康も長寿で知られますが、天海はそれを凌ぐ長寿であり、なんと107歳まで生きていたのです。江戸幕府ではブレーンの一人として絶大な力を持ち、とりわけ寺社の再建復興など宗教政策において力を発揮したとされています。そして実はこの人物、明智光秀なのではないか?との説が長らく主張されているのです。

・東照宮を彷彿とさせる造りの鐘楼門

光秀といえば本能寺の変で織田信長を倒し、そこから山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れるまでの短い間、世に言う「三日天下」を築いたことで知られている人物なのですが、そもそも本能寺の変の黒幕は未だによく分かっておらず、また光秀の死についても不可解な点が多いのが実情です。(ここについて話すとそれだけでまた連載がひとつ出来てしまうことになるので割愛しますが、僕は家康黒幕説を支持する次第です。)そして徳川家康と間に浅からぬ関係があったという点も見逃せません。事実、家光の乳母(育ての親)として抜擢された春日局はもともと光秀の重臣、斎藤利三の娘だったのです。

・これは多宝塔 

今の喜多院は多方江戸時代に造られたものなのですが、このお寺自体の歴史はその遥か昔、なんと7世紀末の880年に遡るのです。創設したのは浅草寺をはじめとする多くの寺社を開山したことでも有名な慈覚大師円仁であり、当時は「星野山無量寿寺」と号していました。無量寿寺はそもそも3つの寺から構成されており、それぞれ北院、南院(今はない)、中院と呼ばれていたのです。では誰が今の呼称に改めたのかというと、その人物こそ天海なのです。(喜びが多くありますように...との願いが込められているそうです。素敵ですね^^)

・中庭にも注目

喜多院は江戸幕府ないし徳川家と非常にゆかりのある場所でもあるのです。そもそも喜多院は1638年の大火で山門を除く全てを消失しており、その再建を手がけたのが時の将軍、徳川家光だったのです。特筆すべきなのは、そのときに江戸城の一部(紅葉山御殿)がここに移築されている点です。その後の明暦の大火(1657年)などによって殆どを焼失した江戸城ですが、ここに一部ではあるものの築城当時の面影を見れるところがある...というのは大変貴重なところです。


・五百羅漢像
喜多院のもう一つの見所は、この五百羅漢像なのです。羅漢というのは平たく言えば仏教におけるとりわけ優れた修行者のことであり、この五百羅漢というのは仏陀に常に付き添っていた弟子たちのことであり、仏陀入滅後に行われたというかの第一回の仏教結集(仏典の編纂)に集った人々なのです。それゆえ古くから日本や中国で彼らは敬われており、各地でこれと同じようなものが作られているのです。本当に500あるのかどうかは数えたわけではないので定かではないのですが、よくよく見るとそれぞれ異なった顔つき・表情をしており、また持ち物や連れている動物なども多種多様で、見る者を飽きさせません。江戸時代末期におよそ50年の歳月をかけて作られたというここの五百羅漢は日本三大羅漢に数えられるほどのものなのだとか...。(諸説あり)

・レトロな車体の観光バス

喜多院を出たあとは、写真のバスに乗り込んで次の目的地を目指します。このレトロなバスは川越旧市街地の名所を周る観光バスで、500円で1日乗り放題になるのです。これで喜多院は勿論、氷川神社や後に登場する菓子屋横丁なんかにも行けちゃうワケです。因みに川越といえば恐らく皆さんが思い出すのは映画「ウォーターボーイズ」のモデルとなったことでもその名を知られる川越高校だと思うのですが、その川越高校もこの喜多院からそう遠くはない場所、もっと言えば川越城本丸御殿(今回は未登場)の目と鼻の先の場所にあるのです。(東大合格者をコンスタントに出すくらいのレベルの高校なんですよ...)

・江戸時代の名残を残す蔵造りの町並み

次の目的地は時の鐘や菓子屋横丁のある旧市街地のメインストリートとも言うべき場所である「蔵造りの町並み」です。冒頭の時の鐘や、西洋風の造りが目を引く埼玉りそな銀行川越支店(上の写真の左手中央奥にちょっと写っている)などが丁度この近辺にあり、ついでに言うと市役所なんかもこの近郊にあります。

・時の鐘は「日本の音百選」にも選ばれている

この周辺には古くからあるお店も多く並んでおり、また観光客も多いため土産物を取り扱うところも少なくありません。川越の名物というのが実はサツマイモなのですが、お土産にもこれを素材にした和菓子なんかが多く見られます。また次回の記事にでも載せますが、サツマイモと時の鐘をモチーフにした「ときも君」なるゆるキャラも最近売り出し中だったりしますw

・いも恋(川越はサツマイモの産地としても有名である)

これは時の鐘の隣にある右門というお菓子屋さんの「いも恋」という名前の芋饅頭なのですが、これ芋と餡子の二重構造(?)になっている珍しいものなんです。丁度スイートポテトに餡をのせたようなイメージなんですけど、その割に甘すぎずあっさりしています。蒸し立てのホカホカが食べれるので、是非近くに立ち寄った際には1つ買って食べてみてください^^

・駄菓子屋が立ち並ぶ菓子屋横丁の風景

蔵造りの街並みから程近くにある旧市街地の隠れたメインスポットが、駄菓子屋が軒を連ねるここ菓子屋横丁なのです。ここでは明治初期よりお菓子の製造をしていたそうなのですが、これほどまでに駄菓子屋が集中するようになった直接のきっかけというのが実は関東大震災なんです。その際に大打撃を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給する拠点となったのです。

・おでんを食べてみた(1つ100円也)

菓子屋横丁には昔懐かしの駄菓子が盛沢山です。子供も大はしゃぎ間違いないのですが、もしかするとそれ以上に大人ないし大人に片足を突っ込んだ人たちこそテンションの上がる場所のような気もします。気が付けば荷物が駄菓子だらけになっていても何ら不思議はありません。決して体にいいものではなく、取り立てて美味しいものでもないのですが、どうしてか買ってしまうんですよね。その辺は今も昔も変わらないのかもしれませんし、ずっと変わらなくていいのだと思います...。因みにこの近辺では駄菓子のほかにも写真のおでんのような軽食もところどころで売っているので、ついついつまみ食いしてしまいますw

・川越駅西口からの風景

家を出たのは昼前だったのですが、川越駅に戻る頃には日も暮れ始め、辺りは次第に暗くなり始めていました。川越駅周辺にはたくさんお店もあるので、この近くで何か食べて帰ってもよかったのですが、この日はところどころで何かと食べていたこともあり、この時点では2人ともまだお腹が減っていなかったのです。そんなワケでとりあえず彼女の住んでいる鶴ヶ島まで引き返し、その近辺で夕食を食べることにしました。

・がってん寿司で夕食を...

それで行ったのが「がってん寿司」という回転寿司のお店。関西には無いお店なので僕も全然知らなかったのですが、値段的にはかっぱ寿司とかスシローよりは割高の、比較的高級感のある回転寿司...といったところで、ネタにも結構こだわっている感じがします。(あと、この寿司屋にはなぜかドリンクバーがありますw)特に美味しかったのは丁度写真に写っている炙りサーモンと季節の具材をふんだんに使った味噌汁、それからウニです。相変わらず寿司屋になんて滅多に行けるご身分ではないのですが、まぁたまには贅沢もしたいものです。そんなところですが本日はこの辺で失礼します、ジベリ!

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